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育休の始まり

神奈川県 矢部健三

 妻が通う専門学校の夏休みに出産。休みのあいだは妻が中心に育児をし僕はそのあいだ育児のイロハを実習する。9月から妻は学校に復帰し、僕は育児休業を取り、日中は子どもと二人で過ごす。−僕たちははじめそんな計画を立てていました。でも、子育ては親の思い通りには行かないもの。僕らの計画はすぐに崩れてしまいました。

 出産が予定日より2週間も遅れ体力を消耗したこと、真夏の暑さ、口蓋裂があり十分な水分をとれなかったことなどが重なり、生後2日目に息子は軽い脱水による発熱をしてしまったのです。医療的なケアが必要な段階との助産婦さんの判断で、近くの総合病院に救急で入院させてもらうことになりました。

 幸い症状は軽く、僕たちは2週間ぐらいで退院できるのでは?と期待していました。ところが、退院は口でちゃんとミルクが飲めるようになってから、という医師の判断(入院当初は鼻から胃に通した管でミルクを飲ませていた)でなかなか退院できず、入院は7週間におよび、僕の育休は病院通いから始まったのです。

 新生児室の面会時間は午後5時から7時。母親には授乳時間として午後1時と4時の入室も許されていました。そこで、夫が育休を取り中心に育児をするので授乳時間の入室も認めてほしい、と病院にお願いして認めてもらいました。午前中は掃除・洗濯。お弁当におにぎりを作って妻か僕の母とお昼前に出発。1時の授乳をすませるとロビーで昼食と昼寝。4時の授乳を終えて家に帰るという毎日。

 ようやく退院できたのは9月もおわりに近づいた頃でした。「ミルクを誤嚥していないか、チアノーゼをおこしていないか確認するのには目が必ず必要です」との医師の指示で、退院後もしばらくのあいだ近くに住む僕の母に日中手伝いに来てもらうことになりました。掃除・洗濯・炊事は特に問題はないので、母には主に調乳と残量のチェックをしてもらいました。

 ミルクは混合で、妻が搾っておいた母乳を温めたり、粉ミルクを溶かしたりしましたが、一番難しかったのは、母乳だけでは1回の分量に足りないとき。足りない分だけ粉ミルクで作るのにお湯の量を量るのが大変でした。計量カップを使ってなんどもやってみるのですがなかなかうまく行きません。ほとほと困っていたときにかるがもの会の森会長(当時)から注射器を使って湯量を計る方法を教えてもらい、本当に助かりました。

 授乳もなかなか大変でした。口蓋裂のある子どもは、口の奥、口腔と鼻腔との境目が未発達で常に鼻から息が漏れてしまうため、乳首を吸って飲むことができません。何度もやっているうちにだんだん乳首を噛んで飲むことができるようになるのですが、初めのうちは一生懸命哺乳壜の乳首を噛んでいるのに全然飲めていなかったり、逆に早く飲み過ぎたり。あまり飲めないとまた脱水になってしまうのでは?と心配になったり、飲むのが早すぎると下顎の発達に悪いのでは?と気になったり。母の目を借りずにミルクの残量を計る方法はないものだろうか?と考えていたのですが、そのあいだに3ヶ月過ぎにはミルクをほとんど残さず飲めるようになっていました。

 子どもが退院してしばらくは、一人では調乳もできず、残量もはかれず、母の目に頼らざるをえない僕が育休を取ったのはまちがいだったんじゃないのか?僕にはこの子の育児はできないんじゃないか?と自信をなくしていました。でも、健常の人も産後しばらく母親の手を借りたりすることは多いのだから・・・、と自分を慰めたりしました。

 子どもが3ヶ月を過ぎた11月の始めには、子どもの成長と森さんのアドバイスでなんとか一人で育児をやっていける自信が尽きました。ところが・・・、母に「もう一人でだいじょうぶだよ」と言っても「うん、まあ・・・」と生返事ばかり。初孫の顔見たさに相変わらず毎日のように通って来ます。こうなると、あれほどありがたかった母の存在も鬱陶しく感じられてきますし、孫の顔を見たい一心とはわかるのですが、僕に育児は任せられないと思っているのでは?と考えてしまい、だんだんイライラしてきます。なんども険悪な雰囲気になりながら、結局母は12月半ばまで通い続けたのです。

 ようやく親子二人で過ごす育休が実現したのは、育休期間も半分終わるころでした。

 

「かるがも新聞」(1999年2月号)

 

 

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最終更新日: 20091125()

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